火曜日, 1 of 12月 of 2020

西武新宿駅 なぜ遠いのか?

 

■幻の東口乗り入れ計画

右手の茶色いビルが西武新宿の駅ビル。新宿プリンスホテルと一体化している
 

右手の茶色いビルが西武新宿の駅ビル。
新宿プリンスホテルと一体化している

 日本一のターミナル、新宿駅。
JRや私鉄、地下鉄が集結するこの駅で、ひときわ離れているのが西武新宿駅だ。
なぜ、一路線だけ離れているのか。
調べてみると、過去に何度か乗り入れ計画があったことがわかった。
新宿の私鉄を巡る秘話を追った。
 
■西武新宿からJR、乗り換えに6~9分
西武鉄道の黄色い電車を降りて駅ビルから外に出ると、JR新宿駅が遠くに見えた。JR改札までゆっくり歩いて6分ほど。人混みの程度や信号によってはもっとかかるかもしれない。
 乗り換え検索サイト、「駅探」で調べてみると、西武新宿駅からJR新宿駅までは徒歩7分。「ナビタイム」では8分、「ヤフー!ロコ」では9分だった。駅探では分速60メートルで計算しているといい、乗り換え距離は420mということになる。
 なぜこれほど遠いのか。西武鉄道に聞くと「昔のことでよくわからない」とのこと。同社には社史がなく、過去のいきさつについては伝わっていないようだ。
 
 
 何か手掛かりがないか。「鉄道未成線を歩く 私鉄編」(JTBキャンブックス)などの著書がある鉄道愛好家の森口誠之さんに尋ねたところ、西武鉄道の常務がかつて鉄道雑誌のインタビューで詳しく語っていることがわかった。
 図書館で入手したその雑誌、「鉄道ピクトリアル」の1992年5月号増刊「特集 西武鉄道」では西武鉄道の長谷部和夫常務(当時)が興味深い話を披露している。一部を引用しよう。
 
■西武新宿駅は仮の駅だった
 「西武新宿は当初仮駅だったのです」
 長谷部氏によると、西武新宿駅はひとまず仮駅として設置し、駅前整備を待って国鉄新宿駅まで延長する計画だったという。
 西武新宿駅が開業したのは1952年(昭和27年)。まずは現在の場所に簡単な駅舎ができた。この辺りには戦前、西武軌道という路面電車があり、新宿駅東口まで延びていた。国鉄への乗り入れは、この軌道跡を利用することになっていた。
 
西武新宿駅は1977年に駅ビルが建つまで簡素な駅舎だった(1964年撮影、新宿歴史博物館所蔵)
 

西武新宿駅は1977年に駅ビルが建つまで簡素な駅舎だった(1964年撮影、新宿歴史博物館所蔵)
 

■狭くて乗り入れを断念、ルミネエストに計画の痕跡
 
「新宿民衆駅ステーションビル」の2階部分の設計図。上部に見える西武線のプラットホームが、ビルに接続するよう設計されている(新宿歴史博物館所蔵)
 

「新宿民衆駅ステーションビル」の2階部分の設計図。上部に見える西武線のプラットホームが、ビルに接続するよう設計されている(新宿歴史博物館所蔵)

 順調に進んでいたかに見えた計画がなぜ、実現しなかったのか。長谷部氏はインタビューでこう答えている。
 「島ホーム1本で6両2線のスペースしかとれないという制約がありました。新宿線の電車は、4両から6両、8両、10両とあっという間に増えていきましたから、6両2線ではどうしようもなくて断念したのです」
 無理して乗り入れても、すぐにパンクしてしまう――。同社は計画をあきらめた。1977年(昭和52年)にはプリンスホテルや商店街が入った駅ビルを建設し、仮駅はついに本駅となった。
 実はこのときの計画の痕跡が今も残っている。ルミネエストの建物は1階の天井が高く、2階はかなり低い。1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。
 
新宿民衆駅ステーションビルの計画案。ビルの右手に西武鉄道の高架線が見える(新宿歴史博物館所蔵)
 

新宿民衆駅ステーションビルの計画案。ビルの右手に西武鉄道の高架線が見える(新宿歴史博物館所蔵)

 
■バブル期には地下でつながる構想も
 幻となった新宿東口乗り入れ計画。実はバブル期にも別の構想があった。地下でJR駅と接続するというプランだ。
 1989年2月8日付の日本経済新聞夕刊に詳細が載っていた。それによると新宿線の「上石神井―西武新宿」間(12.8キロ)の地下50m 付近に急行用の線路を新設し、地上と地下とで複々線化する。自社路線の地下なので用地買収の手間はかからない。しかも途中駅は高田馬場のみ。何とも意欲的 な構想だった。1997年(平成9年)の完成を見込んでいた。
 運賃の上乗せまでして資金を集めたこの計画もまた、実現しなかった。1995年(平成7年)1月に突如、同社が計画の無期延期を発表したの だ。理由は費用の膨張と乗客の減少だった。新宿線の乗客が伸び悩む一方、当初1600億円と見積もった工事費が、地下水対策などがかさみ3000億円に膨 らんだ。バブル崩壊の荒波を受け、悲願の東口進出は再び幻となった。
 
バブル期に計画された西武新宿線の複々線構想(「鉄道ピクトリアル」1992年5月号増刊より抜粋)
 

バブル期に計画された西武新宿線の複々線構想(「鉄道ピクトリアル」1992年5月号増刊より抜粋)
 

■西武新宿線の起点は高田馬場駅だった
 
西武新宿駅の線路脇には「2K」と書かれた杭が打ち込んである
 

西武新宿駅の線路脇には「2K」と書かれた杭が打ち込んである

 悲運の駅、西武新宿。ホームを歩いていたら気になるものを見つけた。「2K」と書かれた杭(くい)が線路の横にあったのだ。この杭は距離標 (キロポスト)といって、起点からの距離を示している。2Kは2キロという意味だ。発着駅なら「0(ゼロ)K」のはず。西武新宿駅は新宿線の起点ではない のか? 西武鉄道に聞いた。
 「新宿線の起点は高田馬場駅です。西武新宿駅よりも開業が早かったのです」
 旧西武鉄道が「東村山―高田馬場」間で開業したのは1927年(昭和2年)。当時は村山線と呼ばれていた。旧西武鉄道はその後、池袋線を運営していた武蔵野鉄道と1945年(昭和20年)に合併し、西武農業鉄道となった。翌46年には西武鉄道と改名する。
 
西武新宿線最大のターミナル、高田馬場駅。JR山手線、地下鉄東西線と乗り換えが可能だ
 

西武新宿線最大のターミナル、高田馬場駅。JR山手線、地下鉄東西線と乗り換えが可能だ

 一方、西武新宿駅の開業は1952年。村山線では長らく高田馬場が発着駅だったため、戦後の新宿への延伸後も起点は高田馬場駅のまま変わらなかったのだ。
 駅の利用者数を見ても、高田馬場駅が新宿線最大のターミナルであることがわかる。西武鉄道によると、高田馬場駅の乗降者数(2011年度、 1日平均)は約29万人。これに対し西武新宿駅は約17万人だ。やはり乗り換えの不便さが響いているようだ。ちなみに西武鉄道全体では池袋線の池袋駅が約 47万人で最も多い。
 
■西武線の都心乗り入れが遅れた理由
 
西武線といえば黄色い電車。西武新宿駅が発着駅となっている
 

西武線といえば黄色い電車。西武新宿駅が発着駅となっている

 西武鉄道の歴史について調べていたら、前出の鉄道愛好家、森口さんが興味深い話を教えてくれた。都心乗り入れを巡る秘話だ。
 西武鉄道は1983年(昭和58年)に地下鉄有楽町線との直通運転を始めた。1960年代から始めていた他社と比べ、都心への乗り入れはず いぶん遅かった。なぜか。先ほども登場した西武鉄道の元常務、長谷部氏が今度は雑誌「鉄道ジャーナル2007年1月号」でこんな裏話を披露している。
 「西武グループの創業者である堤康次郎、我々は”大将”と呼んでいましたが、大将と東急の五島慶太氏との確執が原因だったのです」
 
 
 「都心乗り入れをすれば、なんらかの形で五島氏や、その息のかかった運輸官僚と関わることになります。五島氏が深くその設立に関わった営団と協議することすら、大将にとっては耐え難いことでした。ですから都心に乗り入れること自体が西武社内ではタブーでした」
 ではなぜ、方針が変わったのか。長谷部氏は続ける。
 「郊外鉄道と地下鉄各路線との相互乗り入れが具体化する中で、西武社内では『このままでは他社から取り残されるのでは』という別の危機感が徐々に生まれていったからです」
 同社はまず、地下鉄東西線との直通化を希望した。しかし東西線は既に中央線との話がまとまりつつあり、「当局から相手にしてもらえなかった」(長谷部氏)。曲折の末、実現したのが地下鉄有楽町線との直通だったという。
 

■移転を繰り返した京王線の新宿駅
 新宿の私鉄を見渡すと、京王電鉄にもユニークな歴史がある。駅の位置が何度も変わっているのだ。
 
 
 最初にできたのは1915年(大正4年)。当時は京王電気軌道という名の路面電車で、現在の新宿3丁目の交差点の南側に停留所があった。新宿通り(旧青梅街道)を走る東京市電と連絡していた。
 1927年(昭和2年)には「新宿追分駅」として新宿4丁目交差点付近に移転。駅と直結する「新宿ビルディング」には松屋デパートなどが入り、駅ビルの草分けの1つだったようだ。
 その後1930年(昭和5年)に「四谷新宿駅」と名前を変え、1937年(昭和12年)には「京王新宿駅」となる。1936年(昭和11 年)から1988年(昭和63年)までは京王帝都電鉄(現・京王電鉄)の本社ビルでもあった。現在、旧本社跡地には「京王新宿三丁目ビル」が建っている。 その隣には「フォーエバー21」などが入居する「京王新宿追分ビル」がそびえ立つ。
 
■空襲で電力が不足、坂を上れず西口に移転
 同社にとって転機となったのが、太平洋戦争だ。
 
甲州街道上を走る京王線。背後にはガスタンクが見える(1962年ごろ撮影、新宿歴史博物館所蔵)
 

甲州街道上を走る京王線。背後にはガスタンクが見える(1962年ごろ撮影、新宿歴史博物館所蔵)

 1945年5月、空襲で同社の変電所が被害を受けた。たちまち電力不足に陥り、甲州街道の坂を上れなくなった。そこで同年7月、坂の向こう 側の西口に移転する。ちょうど今の京王百貨店がある辺りだ。東口で生まれた京王線が現在、西口にあるのは、こうした事情があったのだ。
 西口に移転したことで、ちょっとした変化があった。駅を出て甲州街道を右折する際、自動車との接触を避けるために巨大な踏切が設置されたという。ただし警報は鳴るものの遮断機はなく、トラブルが多かったらしい。交通量が多いので、さばくのは大変だったようだ。
 長らく路面を走っていた京王だが、東京オリンピックで甲州街道がマラソンコースとなったのを機に、線路も駅も地下に潜る。こうして現在の京 王地下駅が誕生した。1963年(昭和38年)のことだった。1978年(昭和53年)には甲州街道の下に京王新線が生まれ、1980年(昭和55年)か ら地下鉄都営新宿線との直通運転を始めるようになる。
 
■1930年代に西口開発計画、西武線が地下に?
 今でこそ私鉄や地下鉄が集結している新宿西口だが、再開発が進んだのは1960年代後半になってから。実はその30年以上も前に、原型となる構想が策定されていた。
 計画を主導したのは当時の内務省都市計画技師、近藤謙三郎氏。それはこんなプランだった。
 
「新宿駅付近広場及び街路計画」(1933年7月時点)。西口にある「新駅」とは国鉄新宿駅の駅舎を指す。鉄道路線を集結させる意図が明確に伝わってくる。越沢明「東京の都市計画」(岩波新書)より抜粋
 

「新宿駅付近広場及び街路計画」(1933年7月時点)。西口にある「新駅」とは国鉄新宿駅の駅舎を指す。鉄道路線を集結させる意図が明確に伝わってくる。越沢明「東京の都市計画」(岩波新書)より抜粋

 まずは駅前に大面積の広場を整備する。駅北側の地上を走っていた西武電車(現・西武鉄道)を西武高速鉄道として地下化し、東京高速鉄道 (現・東京メトロ)と直通運転させ、広場の地下に駅を整備する。そこには渋谷から延伸した東京横浜電鉄(現・東急電鉄)も合流する。地上では小田原急行 (現・小田急電鉄)と京王電車(現・京王電鉄)が並び、東口にあった国鉄の駅舎を西口にも設置する。
 建物の高さ規制も行った。それも上限ではなく「広場に面する区画では最低でも17m」と下限を設定したのだ。北海道大学大学院の越沢明教授は「それまで別々だった交通整備と都市計画を一体的に考え、駅前を立体的に構築した点で画期的でした」と解説する。
 1930年代前半に立てた計画は実行に移され、1941年(昭和16年)には広場や街路の大部分が完成した。戦争で中断するが、戦後の新宿副都心計画へと受け継がれていく。
 「新宿だけではなく、渋谷や池袋など戦後の東京の駅前整備はすべて近藤氏の構想に基づいています。東京の隠れた大恩人といってもいいでしょう」。越沢教授はその構想力を高く評価している。(河尻定)
 
左側が「京王新宿追分ビル」。かつて京王の本社があった「京王新宿三丁目ビル」は丸井などが入るビルの奥にある
 

左側が「京王新宿追分ビル」。かつて京王の本社があった「京王新宿三丁目ビル」は丸井などが入るビルの奥にある

 
ルミネ1とファーストキッチンがある交差点に、かつて巨大な踏切があった。交通量が多くトラブルが絶えなかった
 

ルミネ1とファーストキッチンがある交差点に、かつて巨大な踏切があった。交通量が多くトラブルが絶えなかった

 
西武新宿の駅ビル前からJR新宿駅東口を望む。乗り換えたいとは思えない距離だ
 

西武新宿の駅ビル前からJR新宿駅東口を望む。乗り換えたいとは思えない距離だ

 

Leave a comment