日曜日, 25 of 10月 of 2020

訃報 中村勘三郎(57)

 


           
人気歌舞伎俳優の中村勘三郎(本名・波野哲明)さんが12月5日午前2時33分、急性呼吸窮迫(きゅうはく)症候群のため東京都文京区の病院で死亡した。

57歳。昭和30年5月30日生まれ。

 

ショック! ((((;゚д゚))))


東京都出身。今年6月に食道がんであることを公表し、療養中だった。
事務所の発表によると、中村さんは7月27日に食道がんの手術を受け、一時は病棟内を歩くなど回復の兆しが見えた。
しかし、その後に肺炎を発症し、呼吸不全が進行したという。
勘三郎さんは1955年に十七代目中村勘三郎の長男として生まれ、3歳のときに「昔噺桃太郎」の桃太郎で五代目中村勘九郎を襲名して初舞台を踏んだ。
2005年に十八代目の勘三郎を襲名するまで、46年間、勘九郎を名乗っていた。
子役のころから優れた演技で、立ち役、女形いずれの舞台も高い評価を得ていた。
古典の歌舞伎から新作まであらゆるジャンルをこなし、積極的 にファン層拡大にも務めた。
1994年から始めた東京・渋谷区のシアターコクーンで開催する「コクーン歌舞伎」は若者にも人気となった。
2000年には東京・浅草 の隅田公園内に「平成中村座」として江戸時代の芝居小屋を復活させた。
また、海外での公演にも挑戦し、2004年、2007年にはニューヨークで歌舞伎を上演し話 題となった。
歌舞伎以外の舞台にも出演。映画「やじきた道中 てれすこ」(07年)やNHK大河ドラマ「元禄繚乱」(99年)では主演も務めた。
歌舞伎界以外でも交友は広く、笑福亭鶴瓶、ドラマにも出演。ファン層を広げた。
2008年には紫綬褒章を受けている。

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 女優の大竹しのぶ(55)が5日、東京都内で開かれた主演舞台「ピアフ」の製作発表会見に出席。同日に急性呼吸窮迫症候群のため57歳の若さで亡くなった歌舞伎俳優・中村勘三郎さんの思い出を語った。
  自身が20歳の時からの付き合いとなる勘三郎さんについて「役者としてもちろんですが、人間的にあんなチャーミングな人はいない。すべてのスタッフさんに とてつもない愛を持っている人だった。会った人は必ず彼を好きになると思うし、後にも先にも彼みたいな人は現れない。芝居に対する思いもそうですし、一言 では表わせない…いないと困る人です」と振り返った。
 思い出を聞かれるも「いっぱいありすぎる」と大竹。「とにかく会うと芝居の話ばかりしてましたし、これからもするかな。とにかく芝居の話をする時は楽しそうでしたね。いつも2人になったら、褒め合ってましたし、いい芝居しないと怒られるんです」。
  入院中の病院にも頻繁に駆け付けたという。「(見舞いには)行ける時には行きました。(今年7月の食道がんの)手術後2日目ぐらいでICUの中を歩いてい た。その時、私もいたんですが、みんなで拍手したら、“大竹しのぶに拍手もらっちゃった”と笑っていた」と笑顔を見せた。
 「病院のスタッフさんにも本当に愛されていました。それは彼の人間性。すべての人に愛されて、すべての人に何とか治ってほしいと思われていた。たぶん日本中の人もそう思っていたと思う」と無念の表情を浮かべた。
 

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女優の大竹しのぶ(55)が5日、都内で行われた舞台「ピアフ」の製作発表に出席し、同日未明に亡くなった歌舞伎俳優の中村勘三郎さんを看取っていたこと を明かした。
厳しい状況と聞き、4日午前中から入院先の病院に詰めていたという。「闘病した姿も見ているし、実際にお家に(ご遺体が)帰ってきたのも見た けど、冗談やってるとしか思えないというか、全然信じられない」と声を落とした。
今朝、大竹は勘三郎さんの息子で歌舞伎俳優の中村勘九郎、七之助と抱擁を 交わして送り出されたという。この日は登壇時には、泣きはらしたように目をうるませていたが、取材陣から「大丈夫ですか?」と聞かれると、「大丈夫です」 と笑みを見せ、気丈に答えた。
入院中の見舞いには、「けっこう行ける時に行っていた」と説明。勘三郎さんが7月に手術を終えた2日後に、病院内を 歩いた時もその場に居合わせ、「凛々しくて、カッコ良くて、『中村屋』って拍手した」そうで、勘三郎さんは「大竹しのぶに拍手もらったよ」と喜んでいたと いう。「芝居の話をすると一番楽しそうだった」と回想し、来年完成する新しい歌舞伎座の舞台に立つことを楽しみにしていたとも。秋頃には「普通にしゃべれ る状態ではなかった」が、「(2人で)ふざけて投げキッスし合ったり、私がピストルで撃つふりをしたら死んだふりもしていた」と入院中の勘三郎さんとの様 子も明かした。
勘三郎さんの人柄について、「真面目だし、努力家だし、すばらしい気力、体力を持っていた。会った人はみんな好きになる。芝居に対 する大きなエネルギーを持っていた。とても一言では言えない」と偲び、「いないと困る」とポツリ。「あの人の穴は誰にも埋められないし、あの人がやろうと したことは誰も代われない。後にも先にもあんな人はいない。彼を失った演劇界はどうなるのか」と憂いの色をにじませた。大竹が20歳の頃に、勘三郎さんが 大竹に思いを寄せていたそうですが?と聞かれると、「『好きだ、好きだ』って、普通に言ってました」と懐かしそうに笑い、「役者である限り、彼ががっかり しない芝居をしないといけない」と亡き盟友に誓っていた。
また、勘九郎、七之助について、「2人とも立派だし、強いし、前を向いてやろうとしてるし、(勘三郎さんは)いい子どもを持ったなと思う。頑張って、いい役者になって欲しい」とエールを送り、「またすごい一家になると思う」と期待を寄せた。
 

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 華やかな芸で愛された歌舞伎役者、中村勘三郎さんの死に、悲しみと驚きが広がっている。
 京都・南座での襲名披露公演後に取材に応じた長男の勘九郎さんによると、勘三郎さんは、8月初旬に肺炎を発症したため、人工呼吸器を装着。それでも声を出せるようになると、「菅原伝授手習鑑(かがみ)」の松王丸のせりふの練習を始めたという。勘九郎さんは「父が愛した歌舞伎の終わりなき道を究めたい」と決意を語った。本葬は未定。喪主は勘九郎さんと次男の七之助さん。
 歌舞伎界のプリンスとして、幅広い役を体得した勘三郎さん。舞踊などで切磋琢磨(せっさたくま)してきた坂東三津五郎さんは、「小さい頃から、同学年で彼が先頭を走ってきた。それに遅れまいと頑張ってきたお陰で今の自分がある。今は人生の半分をもぎとられたような気持ち」と悲しみを表現した。
 快活な性格で多くの人を束ね、現代演劇畑の野田秀樹さんらと組むなど歌舞伎界を盛り上げた。劇作家で女優の渡辺えりさんは「歌舞伎と現代劇をボー ダーレスにした最初の人。みんなに愛され、勘三郎さんの言うことなら、とみんな協力した」と振り返る。映画監督の山田洋次さんも魅力にひかれ、舞台を映画 化した。「才能のある人たちを組織し、見事な演劇的世界を作り上げた偉大な功績は、演劇史に大きく記されるだろう」との談話を発表した。
 ファン拡大のため、鹿児島・硫黄島で「俊寛」の野外上演に挑むなど地方も駆けめぐったが、近年は体調がすぐれず、食道がんの手術後、肺疾患を併発した。
 東京・渋谷で人気の「コクーン歌舞伎」の演出家、串田和美さんは、病院に見舞った際、すでに話はできなかったという。「何度も奇跡を起こしてきた 人だから、奇跡を信じる気持ちと覚悟する気持ちとの間で揺れ動いた。僕よりこんなに若いのに、という不条理な感覚がずっとあった」
 そして早すぎる死。女優の大竹しのぶさんは最期をみとった。1977年に舞台で初共演して以来、「会うと芝居の話ばかり」と言い、「役者としても人間としても、チャーミングな方。これから演劇界はどうなっていくのでしょう。頑張らなければいけません」と気丈に語った。
 人間国宝の女形、坂東玉三郎さんは「歌舞伎界の大きな損失で、私自身にとってもさみしいかぎり。途方に暮れる思いですが、皆と話し合いながら、将来を考えていきたい」。勘三郎さんなき後、伝統を守り続ける思いを談話に託した。
 

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 劇作家で俳優の野田秀樹氏(57)が6日、急性呼吸窮迫症候群のため5日に亡くなった歌舞伎俳優の中村勘三郎さん(享年57)について、都内で取材に応じた。
 公私にわたり25年以上の深い親交があり、最期もみとった野田氏は、勘三郎さんが入院中に「今のおれの状態を芝居にしろ」と“闘病舞台”の製作を提案していたことを明かし、「演劇界にとって喪失を超えた災害」と、同い年の巨星の急死を悔やんだ。
 生涯を芝居にささげた勘三郎さんらしい、エピソードだった。「一回、アイツが自分の状態を芝居にしろと言ったんだよね」。5日に逝った勘三郎さんをみとった、親友・野田氏は病床での勘三郎さんの提案を明かした。
 勘三郎さんが6月に入院してから、野田氏は毎日のように見舞 いに訪れていたというが、2人の間で練っていたのが「野田版 曽根崎心中」など、7つの新作の構想。その中に、食道ガンと闘う自分自身を芝居化するという 提案があったという。野田氏自身98年に、右目を失明した体験を基に舞台「Right Eye」を完成させていたが、それをヒントに、勘三郎さんは究極の 役者魂の表現を目指したようだ。
 野田と勘三郎さんは1985年に東京・渋谷の路上で偶然出会い、意気投合。それ以降、公私に親交を温め、 野田が脚本した勘三郎さん主演の新作歌舞伎「野田版 研辰の討たれ」(01年)、夫婦役で共演した「表に出ろいっ!」など、現代劇と古典芸能の枠を超え、 コラボしてきた。
 「フェードダウンしていくようだった。入院中は看護師さんにちょっかいを出したりしていたけど、最期は看護師さんが何人 もお別れに来た。みんなから愛されるアイツの性格だよね」と盟友の最期のときを明かした野田氏。親友であるとともに演劇界の宝である勘三郎さんの急逝を 「喪失を超えた被害。災害です」。フィールドを超えて多くの人を結びつけた演劇界の太陽が消えたことを嘆いた。
 

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 12月5日に57歳で亡くなった歌舞伎俳優、中村勘三郎さんの通夜が10日、東京都内の自宅でしめやかに営まれた。
歌舞伎俳優のほか、プロ野球の長嶋茂 雄・元巨人監督(76)や映画の山田洋次監督(81)、劇作家で演出家の野田秀樹さん(56)、女優の大竹しのぶさん(55)ら親交の深かった人たちが 次々に弔問に訪れ、約700人が早すぎた死を惜しんだ。
リビングに設けられた祭壇には、長男の勘九郎さん(31)の結婚式で撮影した黒のタキシード姿の写 真が遺影として飾られていたという。
 次男の七之助さん(29)と高校で同級生だったアイドルグループ「嵐」の松本潤さん(29)は報道陣の取材に応じ、「仕事でもプライベートでも相談に乗っていただいた」と、故人をしのんだ。
 11日には葬儀・告別式を自宅で近親者のみの密葬として行い、後日、本葬を開く。
 

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 5日に57歳で死去した歌舞伎俳優中村勘三郎さんの葬儀・告別式が11日、近親者による密葬として東京都文京区の自宅で営まれた。歌舞伎俳優の松本幸四郎さんや劇作家の宮藤官九郎さんら関係者約500人が訪れ、別れを惜しんだ。
 長男勘九郎さんら遺族の思いとして「短い人生でしたが、素晴らしい先輩や後輩、仕事仲間、ファンに囲まれ、楽しい、すてきな、格好いい人生を全うできたと思います」とするメッセージが代読された。出棺の際は紙吹雪が舞う中、「中村屋!」の声が掛かり、名優を見送った。
 喪主は勘九郎さんと弟の七之助さんだが、京都・南座での公演のため列席しなかった。
 

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 5日に57歳で死去した歌舞伎俳優の中村勘三郎さんの葬儀・告別式が11日、近親者による密葬として東京都文京区の自宅で営まれ、大竹しのぶ (55)、野田秀樹氏(56)、江川卓氏(57)、宮藤官九郎(42)のほか、松本幸四郎(70)、中村吉右衛門(68)、市川猿之助(37)、中村獅童 (40)ら歌舞伎関係者ら約500人が参列し、故人と最後のお別れをした。
 勘三郎さんの棺には、来年4月に完成する新しい歌舞伎座の完成予想図や、手紙などが納められた。獅童や中村福助(52)、江川氏、野田氏らが棺を持って出棺。
 出棺では、天使やハトをかたどった紙吹雪が舞う中、拍子木を鳴らす音や「中村屋!!」の掛け声が響き、名優の旅立ちを見送った。
 喪主は長男勘九郎(31)、次男七之助(29)だが、京都・南座での公演があって列席しなかったため、葬儀では喪主あいさつが代読された。
 「短い人生でしたが、素晴らしい先輩や後輩、仕事仲間、友だち、ファンに囲まれ、楽しい、すてきな格好いい人生を全うする事ができたと感謝してます。父は、ICU(集中治療室)での131日間、回復することを信じて闘い抜きました」
 11月初旬には勘三郎さんが3カ月ぶりに声を出し「ありがとう」と家族に言葉をかけたという。「彼を愛してくださった人たちに少しでも恩返しするのが私どもの使命だと思っています」とメッセージが読み上げられ、参列者の涙を誘った。
 戒名は「演暢院釋明鏡大居士」。演劇に通じ、人の心を映し出すという意味が込められた。
 本葬は、27日正午から東京都中央区築地3の15の1、築地本願寺本堂で営まれる。一般会葬者の焼香は午後2時から。葬儀委員長は大谷信義・松竹会長が務める。
 

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 12月5日午前2時33分、歌舞伎俳優として絶大な人気を誇った中村勘三郎が57歳で亡くなった。「ならない時はならない」とはいえ、あまりにも早すぎる死だった。
 中村勘三郎(本名・波野哲明)は、1955年5月、十七代・勘三郎の長男として生まれた。中村屋は江戸時代の初期に、江戸歌舞伎座の祖となる猿若 座を幕府の公許を得て立ち上げた猿若勘三郎にさかのぼる家系。そして「中村勘三郎」といえば、数ある大名跡の中でも最も古い歴史と格式を誇る名前である。
 49歳でこの名を襲名した勘三郎は、まさに歌舞伎界の中心的存在だったが、その人柄は気さくで、親しみやすいと評判だった。
「勘三郎さんは『みんな誰も平等なんだ』といって、役者にしても、一般の人にしても、関係者にしても、誰にも分け隔てなく接して、何を聞いてもいつも笑顔で答えてくれるような人でした」(歌舞伎関係者)
 交遊関係は幅広く、お酒好きで有名。
自分から「帰ろう」とは絶対にいわず、陽気に飲み明かす。『新しい勘三郎――楽屋の顔』(文藝春秋刊)などの著書があるノンフィクション作家の関容子氏も、何度も酒席をともにしたという。
「梯子しながら夜明けまでとめどなく飲む。突然、銀座の路地裏で汚いバーを見つけて、『行ってみたら面白かった』なんていう冒険心もありました。心 優しい人で、後輩や弟子にお酒を奢って、話を聞いてあげるのが好き。一方、目上の人や歌舞伎のご贔屓さんにご馳走になるのは嫌いでしたね」
 若い頃はシャンパン、特にドンペリが好きで朝まで飲み、そのまま寝ないで舞台に向かうこともしょっちゅうあったが、舞台に影響が出たことは一度もなかったという。
 前出・関氏が続ける。
「飲みながら(市川)海老蔵さんに『鏡獅子を教えてあげる』といったことがあるんです。約束の時間に海老蔵さんが楽屋に行くと、勘三郎さんはびっくりして、『えっ? そんなこといったかなぁ』って。
 飲んで寝ちゃって、すっかり忘れていたみたい(笑い)。でも、来ちゃったものは仕方ないから、『じゃあ心得だけ教えよう』って。お酒の席では気持ちが大きくなって、色んな約束をしたんでしょうね、きっと」
 そんなおおらかな性格だからか、このような酒にまつわる失敗談というか、ユニークなエピソードは枚挙にいとまがない。
「有名な話なんですが、皇居へ食事に招かれた時のこと。大感激した勘三郎さんは、嬉しさのあまりワインを飲み過ぎて、皇太子殿下とご一緒だった雅子妃に対して『奥さん、奥さん』と呼んでしまった。ハッと気づいた時は時すでに遅し。
 冷や汗が出たそうです。その時隣にいた京舞の井上八千代さんが、『この人はいつもこの通りなんです』ってフォローしてくれて、その場は大爆笑になったそうです」(前出・歌舞伎関係者)
 2009年10月の長男・勘九郎(当時は勘太郎)の結婚披露宴でも、喜びのあまりまたまた飲み過ぎ、招待客を送り出す時に、大竹しのぶに抱きつい てしまうシーンも。
一歩間違えれば“大問題”になりそうなことでも、周囲を笑いの渦にしてしまう。そんな誰にも愛される人柄だった。
 

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「人間として表現者として、本当に、最高にチャーミングな生きざまを見せ続けてくださった勘三郎さんの存在は、いつまでも私たちに光やエネルギーを与え続けてくださると信じています」
 5日に亡くなった歌舞伎俳優・中村勘三郎さんを悼んで、女優の宮沢りえは悲しみをそう表現した。
 各スポーツ紙で、勘三郎さんとりえとの関係は「1999年のNHK大河ドラマ『元禄繚乱』で共演した」とされていたが、2人はかつて不倫騒動でマスコミをにぎわせていた。
「りえが当時の人気力士・貴花田(現・貴乃花親方)と婚約破棄後、彼女を支えたのが勘三郎さんで、いつしか2人は親密な関係に発展。そして、りえが 勘三郎の定宿だった京都のホテルで手首を切る自殺未遂騒動を起こした。勘三郎は会見で事故であることを強調したが、勘三郎との関係に悩んで手首を切ったこ とは明らか。そんな騒動があっただけに、りえがコメントしたのは驚きだった」(スポーツ紙デスク)
 当時、勘三郎さんはすでに映画やバラエティ番組などに出演し、歌舞伎役者という枠を超えた人気・知名度だったが、「りえとの騒動後、歌舞伎界を背 負って立つ大スターに成長していった。女遊びもあったが、マスコミが騒ぐことは少なかった」(同)という。実は、その陰には芸能界の大物の多大なる尽力が あった。
「りえとのスキャンダルは、勘三郎さんにとって、それまでの人生で最大のピンチといってもよかった。その際、勘三郎さんの相談に乗り、スキャンダルをなんとか収 めたのが“芸能界のドン”ことバーニングプロダクションの周防郁雄社長
りえとの一件ですっかり勘三郎さんの心をつかんでしまったため、以後、勘三郎さん を所属タレント以上に何かと気にかけていた。マスコミを集めるような芸能イベントに顔を出すことがほとんどない周防氏だが、都内の書店で勘三郎さんが写真 集発売記念イベントを行った際には、早朝にもかかわらず、わざわざ足を運んでいたという。勘三郎さんは、りえとの騒動の後も牧瀬里穂、米倉涼子らと浮名を 流したが、バックに周防氏が控えていなかったら、スキャンダルがバンバン出てバッシングを浴びていたに違いない。以前、息子の七之助が泥酔してタクシーに 無賃乗車し、駆けつけた警察官を殴る騒動を起こした際にも周防氏がしっかり腕利きの弁護士を用意して謝罪会見に同席させ、うまく場を収めた。今後、息子の 勘九郎と七之助も周防氏が父親と変わらずバックアップしていくと思われる」(歌舞伎関係者)
 強力な後ろ盾があるだけに、天国の勘三郎さんも安心して2人の息子の成長ぶりを見守ることになりそうだ。
 

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 5日に57歳で死去した人気歌舞伎俳優中村勘三郎さんの葬儀・告別式が27日正午から、東京都中央区の築地本願寺で営まれ、女優大竹しのぶ(55)が弔辞を読んだ。
 以下全文。
 哲明さん。あなたがいなくなってから3週間と少しが過ぎました。私たちは、まだその事実を受け入れることができず、ただただ途方にくれた毎日を過 ごしています。そんな小さな白い箱を蹴破って「冗談じゃないよ、まったく」と言いながら、あの世界一のチャーミングな笑顔で、私たちの前に現れてくれる。 その方が、ずっと現実味があるんです。
 暑い暑い7月の終わり、私たちは手術後、2日目のあなたを訪ねました。私に見せるためと、痛み止めを打ち、「もう聞いた?」と、せっかちなあなた らしく、看護婦さんを困らせながらICUの廊下を歩いてくれました。たくさんの管を付け、点滴を引きずりながらゆっくり、ゆっくり、けれど確かな足取りで 歩くあなたに、まるで花道を歩いているあなたに向けるように、大きく熱い拍手を贈りましたね。褒められることが大好きなあなたは、うれしそうに、ちょっと 恥ずかしそうに笑い、「大竹しのぶに拍手もらっちゃったよ」と、もちろん支えてくれた看護婦さんにもありがとうを忘れませんでした。
 それから4カ月、本当につらい厳しい闘病生活が始まりました。あんなにたくさんの人を幸せにして、あんなにたくさんの人に愛されてきたあなたが、なぜこんな目に遭わなければならないのか、どうしても理解できない苦しい4カ月でした。
 それでもあなたは真面目に一生懸命、病気と闘ってくれました。数値的にも、状況的にも絶望だと言われた時も何度も何度も、あなたは奇跡を起こし、 光を与えてくれました。大きな厚い壁が突然降ろされても、あなたはあきらめることなく、強い肉体と精神力で、自らその壁を押し上げ、次の光へ押し上げて導 いてくれました。
 私たちだけでなく、先生方も同じでした。「こんなすごい人はいません。僕たちも教えられます。だからこの人のために何とかしたいのです。本当に何とかしたいのです」。涙を浮かべながらおっしゃって下さったこともありました。
 病室でのあなたは、相変わらずみんなに愛されていました。思うように体が動かせなくても、表情と手首だけでみえを切り、看護婦さんたちから拍手を もらってました。意識が少しクリアでないときも、芝居の話をすると、大きく目を開いて私たちの話を聞いてくれました。そして、話したいことがたくさんある と、肺がうまく動かないとき、のりさん芝居の時のように、長ぜりふの時のように大きく息をすってやってみてと言うと、大きくゆっくり深呼吸ができました ね。
 「やんごとなき心臓を持ち」、これは先生の言葉です。やんごとなき精神力を持ち恐るべし中村勘三郎、でもそれは同時にあなたは生きていたいと思ったからですよね。生きていかなければならない人だからですよね。あなたと、今なぜこの別れをしなければならないのか、当分私たちは答えを見つけることができないと思います。
 「天日坊」を見たとき、「あいつら良かったでしょう。まだまだだけど、俺のスピリッツが受け継いでくれたかな」と6月。そう、あなたの魂を受け継 いだ勘九郎がいます。七之助がいます。七緒八がいます。その答えを彼らが出してくれるまで、私たちは頑張っていきます。前よりも、もっともっと大きな力を 持った哲明さん、この3人をそして愛ちゃんを見守ってください。
 そして、何よりもあなたの愛してやまない好江ちゃんにこれからも側にいて力を貸してあげてください。のりさん大好きですよ。今もこれからも。ありがとう。待ってるね。
 

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2012年11月15日(死亡の20日前)

食道がんで入院中の歌舞伎俳優中村勘三郎(57) が肺水腫のため人工肺を装着して治療を行っていることが14日、分かった。
食道がんの手術後、8月末に呼吸不全となるARDS(急性呼吸窮迫症候群)を発 症。
肺胞が機能しない肺水腫となり、自力呼吸を助ける人工肺を付けて治療中だ。
所属事務所は「肺以外は健康です。来年4月の歌舞伎座復帰を目指して頑張っ ています」と話した。
関係者によると、7月27日に行った食道がんの摘出手術は成功した。術後は順調に回復し、食道がんはほぼ完治していた。ところが8月末、ARDS を発症した。
手術や抗がん剤治療で免疫力が落ちた時などに起こる急性呼吸不全で、一時は心肺停止の危険もある厳しい状態になった。
肺に酸素を送り込む人工 呼吸器などでは改善できず、肺胞がむくみを起こして機能不全となる肺水腫になった。
このため、体外に循環させた血液に直接酸素を送り込む人工肺を使う必要 に迫られた。
 
ほぼ同年齢なので 気になります (;´Д`)
 


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