水曜日, 21 of 10月 of 2020

訃報 元横綱輪島

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▲元横綱 輪島

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「貴乃花の実の父親は輪島だ!」という根強いウワサがあります。
確かに顔はよく似ていますし、あの天才的な格闘能力も、輪島ゆずりと考えると納得できます。
世渡りが下手で、相撲協会から追い出されたのも一緒。
変なシガラミの多い日本相撲協会では、一匹狼的な天才は生きにくかったのかも  (T_T)
 
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▲元横綱 貴乃花

 
大相撲の第54代横綱輪島で、史上7位となる14度の幕内優勝を果たした輪島大士(わじま・ひろし)さん=本名・輪島博=が下咽頭(いんとう)がんと肺がんの影響による衰弱で、8日午後8時に東京・世田谷区の自宅で死去したことが9日、遺族への取材で分かった。70歳だった。
「黄金の左」と呼ばれた左差しの攻めを得意とし、大関初代貴ノ花と相撲人気を二分。
ライバルの横綱北の湖(いずれも故人)とともに、昭和40~50年代に“輪湖(りんこ)時代”を築いた昭和の名横綱が、平成最後の秋に旅立った。
 

 

▲伝統の名勝負 輪島北の湖戦

あのころの相撲は 面白かったなぁ  (T_T)

 
輪島さんといえば「黄金の左」。左を差して、右から押っつける盤石の相撲で、“プリンス”貴ノ花、「憎らしいほど強い」といわれた北の湖とともに、昭和40、50年代の大相撲を彩った。
その人生は波乱と毀誉褒貶(きよほうへん)に満ちていた。石川・七尾市生まれ。
香島中時代に相撲を始めると、高校相撲の名門、金沢高で1年時に山口国体を制した。
日大時代には3、4年時に連続で学生横綱となった。
当時、日大相撲部と同じ敷地内にあった花籠部屋に入門すると、幕下では負け知らずで2場所で通過。
46年初場所で新入幕。関脇だった翌47年夏場所で初優勝を果たす。
秋場所後に初代貴ノ花とともに大関に昇進し、「貴輪(きりん)時代」と期待が高まった。
初土俵から3年5カ月たった48年夏場所に大関で全勝優勝。場所後に第54代横綱に推挙された。
学生相撲出身者では史上初の横綱昇進。
本名をしこ名にして最高位に就いたのも初で、その後もいない。
横綱2場所目の秋場所に全勝優勝。同年九州場所では12連勝した後、けがで14日目から休場したものの優勝。
12勝2敗1休と、史上唯一、星取表に「休」が付いた優勝力士となり「ついてんだか、ついてないんだか、分からんね」。
49年も3場所に優勝。50年には腰の故障などのために3場所連続休場し進退問題が浮上したが、見事に立ち直っている。
金色の締め込みがトレードマークで、51年から52年にかけては北の湖と2年間で5度ずつ優勝を分け合い、“輪湖時代”を築いた。
優勝回数では24度の北の湖に及ばないものの、対戦成績は輪島さんの23勝21敗。
「相撲は頭さ」とよく語っていたが、計算し尽くした取り口には天才的なひらめきがあった。
相撲の天才と呼ばれた半面、「夜の帝王」「相撲界の異端児」とも呼ばれたようにマイペースを貫いた。相撲界でタブー視されたランニングを稽古に取り入れた。
一方、新弟子がやるチャンコ番も便所掃除も経験せず、高級マンションで独身生活をエンジョイ。
地方場所では一人冷房の効いたホテル住まいをし、愛車は米高級車のリンカーン・コンチネンタル…と、伝統的な相撲界にあって常識破りな面が多かった。
それが悪い方へと作用してしまったのが引退後だ。
56年春場所中に「気力がなくなった」と引退。花籠部屋を継承したが、先代の長女である夫人の自殺未遂が発生。
そして年寄名跡「花籠」を担保に億単位とされる借金をするという前代未聞の騒動を起こし、これをきっかけに60年12月に廃業した。
61年には「もう一度、めいっぱい裸で勝負する」と、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに入門。
「黄金の左」から名を取った“ゴールデン・アーム・ボンバー”を必殺技に2年間マットで活躍した。
プロレス引退後はタレント活動のほか、社会人アメリカンフットボールチームの総監督などを務めた。
平成25年12月には咽頭(いんとう)がんの手術を受け、言葉を発せなくなった。
日本相撲協会の理事長となった北の湖氏が27年11月に死去した際には、文書で「先に逝かれて寂しい。俺はもう少し頑張る」などとコメントを寄せていた。
鮮烈な印象を残した名横綱が波瀾(はらん)万丈の人生に幕を降ろした。

輪島 大士(わじま・ひろし)

 本名・輪島博。第54代横綱。昭和23(1948)年1月11日生まれ。石川・七尾市出身。金沢高で国体を制し、日大3、4年時に学生横綱。45年初場所幕下付け出しで初土俵。同年夏場所新十両、46年初場所新入幕。47年夏場所、関脇で初優勝。秋場所後に初代貴ノ花とともに大関に昇進、48年夏場所に全勝優勝で横綱に昇進、横綱北の湖と“輪湖時代”を築いた。56年春場所中に引退、花籠部屋を継承した。60年に「年寄名跡担保事件」を起こして12月に廃業。61年に全日本プロレス入団し、63年に引退。アメリカンフットボールチームの総監督、タレントなどで活躍した。幕内通算成績620勝213敗85休(62場所)。生涯通算673勝234敗85休(68場所)。優勝14回(歴代7位)。現役時代のサイズは1メートル84、125キロ。


 
日本相撲協会を1日付で退職した元貴乃花親方の花田光司氏が10日、「貴乃花応援会」のホームページで8日に70歳で死去した元横綱輪島の輪島大士=本名輪島博=さんへの哀悼の思いを記した。
父の元大関貴ノ花の花田満氏と仲の良かった輪島さんは、元貴乃花親方が幼いころに自宅に遊びに来ていたという。「大きな大きな背中の輪島のおじちゃんとの大切な思い出を、いつまでも心にしまっておきたいと思います」とつづった。
「黄金の左」と呼ばれた輪島さんの左差しの攻めに「大相撲の時代を作った輪島さんの黄金の左下手は天才です」と敬意を表した。
そして父の残した「輪島は黄金の左下手といわれるがそれは違う、左を差した時の右からのおっつけが強かった」との言葉を紹介した。
最後に会ったのは輪島さんが「輪湖時代」をともにつくったライバル、日本相撲協会の北の湖前理事長(元横綱)と対談した際に、あいさつをした時だという。
「その時は、声帯の手術と治療をされていると聞きましたが、かすれながらに『こうじ、こうじ』と、元気にお声がけ頂いたことが思い出されます」と懐かしんだ。
 


 
大相撲の元横綱輪島の輪島大士さん(享年70)が死去したことで、血縁関係にあるプロボクシングの元WBA、WBC世界Sウエルター級王者・輪島功一氏(75)=輪島功一スポーツジム会長=と、現役力士の東前頭6枚目の輝(かがやき、24)=高田川=も衝撃を受けた。
世界の頂点に立った功一氏は輪島一族に伝わるDNAについて語り、輝は同郷の元横綱の背中を追う。
丸い土俵と四角いリング。闘う舞台は違っても、その身に宿るルーツは同じだ。不屈の闘志を燃やし、世界王座を3度獲得。「炎の男」といわれた元世界王者の輪島功一氏は、咽頭(いんとう)がんの手術で発声が困難だった元横綱に「声が出ないとは聞いていたが、まさか…。会いたい、会わなきゃと思っていたのに。さみしいよ。泣けてくるねぇ」と言葉を飲んだ。
功一氏は昭和46(1971)年10月、世界初挑戦で世界王座を獲得。亡くなった輪島さんは2年後の昭和48年名古屋場所で横綱へ昇進した。当時、2人は全く面識はなかったが、同姓の人気者が頂点に立ったことを機に、関係者がルーツを探ったところ「輪島水軍」へたどりつき、輪島さんの父方のまた従兄弟だったことが判明したという。
同水軍は石川県の能登外浦の豪族で能登守護の吉見家に仕え、子孫は吉見家ののちに能登守護となった畠山家へ仕えた。「強かったそうだよ、この水軍は。(2人で)この話になってね。このルーツがわれらの力だって」。元横綱は石川・七尾市出身だが、水軍から漁師へ転じた功一氏の一家は北へ移って樺太へ落ち着いた。のちに、横綱のことを「ひろしさん」と呼び、自身は「こうちゃん」と呼ばれる仲に。元横綱は、功一氏の試合会場へ応援に駆けつけたこともあった。
現役力士の輝はこの日、静岡・東伊豆町での秋巡業中に訃報に接した。元横綱の輪島さんは父・一幸さんの遠縁にあたる。小学生のころ故郷の石川・七尾市でのイベントで初めて会い、会話をするようになったのは大相撲へ入門してから。昨年3月の大阪場所中に食事をし、筆談で応対したのが最後になった。
しこ名は「輝大士」。元横綱の「輪島大士」からもらったものだ。輝は「たいし」と読ませ、輪島さんの「ひろし」とは異なるが、本場所の土俵では輪島さんのトレードマークだった「黄金色」の締め込みをつける。「名前もいただいているし、恥ずかしい相撲は取れない。名前に負けないような相撲を取りたい」と気持ちを新たにした。 (奥村展也)

輪島 功一(わじま・こういち)

 本名・輪島公一。1943(昭和18)年4月21日生まれ、75歳。北海道・士別市出身。跳ね上がるようにしながらパンチを繰り出す「かえる跳び」と“炎の男”の異名で知られた元プロボクサーで、WBA、WBC世界Sウエルター級王座を6度防衛。7度目の防衛に失敗したが、その後2度、世界王者に返り咲いた。戦績は38戦31勝(25KO)6敗1分け。77年に引退後は、輪島功一スポーツジムを運営。解説者、タレントとしても活躍している。


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